【セレッソ】サッカーにおける自由の定義:クルピと風間八宏の言葉
いよいよ、今年もJリーグが開幕しましたね。
開幕戦では、昨年のチャンピオン:フロンターレが危なげなく、Fマリノスに勝利しました。そして、迎えた27日。いよいよ、セレッソも開幕。対戦相手は、レイソル。ハラハラドキドキ、今からしてます(笑)
そんなセレッソの監督は、ご存じ過ぎるほどご存じとは思いますがw、今季から4度目の登板となるクルピ。クルピのサッカーは、よく言えば選手の自主性に任せたサッカー。それはイコール『自由』と評されることもあります。
では、この『自由』とは?もう少し言えば、サッカーにおける『自由』とは何か?ここら辺りを、今回、考察してみたいと思います。
[土塔えんじ:ご覧の提供でお送りします]
僕の記憶の範疇で恐縮ですが、2人のプロのサッカー監督による言葉を引用しようと思います。その2人は、奇しくも今年からセレッソに来た2人、1人目は当然のことながらクルピ、そして2人目は風間八宏さんの言葉からです。
辞書で引く、自由の定義
まず初めに、ネット上の辞書ですが、自由を調べてみると以下のような事が出てきます。
- 自分の意のままに振る舞うことができること。また、そのさま。
- 勝手気ままなこと。わがまま
- 哲学で、消極的には他から強制・拘束・妨害などを受けないことをいい、積極的には自主的、主体的に自己自身の本性に従うことをいう。
- 法律の範囲内で許容される随意の行為。
ある程度は想像通りだったでしょうか?
ただ、こうやって自由の意味を並べてみると、意外にマイナス・イメージに感じるように思いませんか?個人的には、この『自由』という言葉は、捉え方次第でプラスにもマイナスにも転じる言葉だと思っています。
そして、『サッカーにおける自由』という側面では、多くの人はこのマイナスイメージが強くなるのではないでしょうか?ここで言う『2.勝手気ままなこと。わがまま』の意味に捉え、チームの和を乱してまうような印象を持ってしまう。
ここでようやく、先に挙げた2人の言葉の出番です。先に少し書いておきますと、クルピ・風間さんともサッカーにおける『自由』について、『2.勝手気ままなこと。わがまま』であることを明確に否定しています。
この辺りを掘り下げていきます。まずは、風間さんの言葉から紹介していきたいかと思います。
風間さんが解説した自由
風間さんがサッカーにおける『自由』について発言したのは、おそらく2003年頃の日本代表戦のテレビ解説だったと記憶しています。まだ、大学サッカーの監督をしていた頃だったかと。
なぜ、サッカーにおける『自由』についての発言があったのか?というと、この当時の日本代表は、今のセレッソ大阪みたいな事が起こっていたからです。当時からサッカーを見ていた方はご存じですよね!?
前年2002年まで日本代表を率いたトルシエ・ジャパン → ジーコ・ジャパンへの移行。それまで、戦術オタクのトルシエによるガッチガチの戦術サッカーから、ジーコによる個人主体のサッカーへ切り替わっていたのです。当時も今のセレサポのように、戦術サッカーから自由サッカーへの議論(どちらかというと非難w)が至る所で行われていました。
そんな中、日本代表の試合のテレビ解説をした風間さん。前置きが長くなりましたが(笑)、ここで説明された風間さんのサッカーにおける自由の定義が、個人的には強烈に印象に残っています。風間さんの発言したのは以下のような趣旨です。
(風間さん)
サッカーにおける自由とは、
自分を律すること。
自由気ままに振舞う行為は、
本当の意味で自由とは言わない。
(一言一句、正しくはないと思いますが、趣旨はあってるはずです。そこはご了承願います(笑))これ、凄い重い言葉だと思いませんか?
プロのサッカーチームにおいて、勝利をすることがまず第一の責任であるはず。その責任を果たす為に自分を律することは当然のことで、自由気ままに振舞うのは明確に違う。言われてみれば当然なのですが、凄いハッとさせられた記憶があります。
この風間さんの言葉を前置きとして、クルピの発言に移ります。
クルピが示した自由
クルピの発言は、2009年前半頃だったと思います。
ある試合で発言した趣旨が以下の通り。
(クルピ)
香川は責任感が強すぎるが故、
プレーに迷いが出る場合がある。
対して、曜一朗は責任感がない故、
時に大胆なプレーをやってのける。
(一言一句、正しくは・・・略w)この趣旨のコメント、覚えているセレサポの方もおられるんではないでしょうか?
曜一朗がベンチ入りもしてなかった試合後のコメントだったと記憶しています。それだけ、曜一朗に期待していると当時のニュースにも書かれていたように記憶しています。(この後、徳島に行っちゃいますが・・・w)
[土塔えんじ:いったん、CMです]
このコメントで、サッカーにおける『自由』については何もクルピは発言されていません。でも、クルピは明確に否定しているモノがあるんですよね。それは、『当時の曜一朗のプレーに対して』です。
何度も書きますが、クルピのサッカーは攻撃においては『自由』なんです。それは、清武とかのコメントからも明らかですよね。そんな中、自由にプレーしていたであろう当時の曜一朗はほとんど使われなかった。何故か?
当時の曜一朗は、上のクルピの言葉を借りて『責任感がない故』なんですよね。この当時からのセレサポさんならご理解いただけると思うのですが、当時の曜一朗はプロ選手の心構えから問題があるとされてました。だから、使われなかった。対照的に香川は、だから使われ続けたのだと。
こんな感じで、クルピの選手起用を振り返ると、クルピが選手に与える自由には『責任が伴う』のは間違いないと思っています。
リンクする2人の言葉・思想
サッカーにおける『自由』について、風間さんとクルピの思想をまとめると、
- 自由とは(責任を果すために)自分を律すること
- (クルピが与える)自由には責任が伴う
この2人、同じことを言ってるんですよね。
要は、自由と言う表現ながら、まず第一に『プロのサッカー選手として責任を果たすこと』を2人とも求めてる。その上での『自由』なんだと。
そして、自由を与えられ、責任を果せるのは選手次第なんですよね。戦術論とかシステム論とかも重要ですが、全部を教えてもらわないとできません・・・と言うのでは、プロの選手としては寂しいですしね。
そして、その『自由』の下にプレーを完遂できた選手は、その後、世界に羽ばたいていけるのも自明。ここに、風間さん・クルピの選手育成論があるような気もしてます。クルピは過去の実績から当然ながら期待したいし、風間さんの育成論をユースっ子に植え付けて欲しいなと思っています。
風間さんとクルピが立て続けに来た時、上で紹介した2人の言葉・思想が僕の頭の中でリンクしてました。そして、この2人が揃ったんか!とかなり面白かったです(笑)
個人的に、2人が言う『自由』を表現できる選手が、トップチーム・下部組織からジャンジャン出てくることを願います。そして、それらの選手のプレーを楽しみに、今シーズンに臨もうと思います。