【我が子への残言】 東日本大震災の記憶(2)次の日以降の記憶

前回の投稿で、地震発生当日のことを書きました。今回は、次の日以降に起こったことと思ったことを書いていきます。

地震の影響をテレビを見る。

津波の映像が流れてくる。

3月12日の朝方に父さんが起きてテレビを付けた時、流れている映像に目を疑ったんだ。実際には映画とかでしか見たことがない光景。津波が来て、町が流されているシーンが次々と映し出されていたんだね。

前日にネットニュースで見た『車が数台流される』という文言が気にはなっていたけど、数台どころじゃなかったんだ。とにかく、信じがたいという印象しか湧かなかったんだ。

そんな映像を見ながら、更にショッキングなニュースが流れてきてね。。。

福島第一原子力発電所の事故

福島第一原子力発電所で事故が起こっているらしい・・・地震・津波の被害状況の合間に、そんなニュースが報道されるようになったんだね。

原子力発電所・・・、原発事故。

父さんもエンジニアの端くれだから、原発を使うことのメリットとデメリットは勉強していたんだけど、そのデメリットの部分が実際のリスクになって目の前に現れようとしていたんだ。そうなると、頭で理解が及ばなくて非常に混乱した記憶がある。

その後、実際に原発の壁が吹き飛ぶ更にショッキングな映像が流れてきた。直感的に、最悪の事態が起こったと理解できた。

突然だけど、ゴジラは知ってる?

父さんはゴジラの映画が好きでよく見てたのだけど、ゴジラは核燃料をエネルギーとして動く生物。映画の中では大抵、ゴジラが町を破壊するシーンがあるんだね。昔、ゴジラの解説書みたいなものを読んだことがあって、その中でゴジラが壊した町の範囲は、原発が事故にあった時の影響範囲を表す・・という説が書かれていた記憶があるんだ(原発ではなく核爆弾だったかも?だけどね(苦笑))。

だから、この原発事故のニュースが流れた時、ゴジラが町を壊した後の映像を想像したんだ。あんな感じになるかも知れない・・・言い知れない不安を持ったのをよく覚えている。

※余談だけど、ゴジラはだから核の恐ろしさを訴える=反核を訴える映画だ・・と言われたりするんだ。

地震の影響を肌で感じる。

放射性物質が飛んでくるらしい。

原発事故が起こってからというモノの、放射性物質が飛んでます!だとかのニュースが飛び交うようになったんだね。原発周囲20kmは立ち入り禁止になっただとか、どこどこまで飛んでいます!だとか。

そのうち、風向き次第では東京まで影響が出る・・・なんぞのニュースも出てきた。よく聞いたワードでは『何ミリ シーベルトまでは大丈夫』だとか『基本的には花粉と同じ対策をすることで、人体への影響を大きく防げます』だとか。

・・・シーベルトって何なん? 東京に来るかも、とか言われても見えへん。

・・・未曽有の事態であるにも関わらず、花粉対策と同じでホンマに大丈夫?

そんな感じのことを思った記憶があるね。放射性物質は、口から入るのが危ない!みたいなニュースもあって、呼吸をするのもはばかれるような感覚があった。だから、本当に息苦しい感じで生活をしてたのをよく覚えている。

余震が続く。

大きな地震があった後は、大小の余震がしばらく続くんだね。ちょこちょこと大きめの余震がきたりすると、また大地震が来たのか?と大きく身構える感じになってた。

一度、通勤中の電車内で大きな余震にあったんだ。この頃からか、大きめの地震が来る直前に緊急地震速報というメールが携帯に届くようになって、とてつもない音で通知される。この時は、当然、車内のほとんどの人の携帯から通知音が鳴ったわけだから、車内に大きな緊張が走ったのが分かった。

 緊急地震速報 = 大きめの地震がすぐに来る

だからね。しかも、この時は、乗っている電車が高架の上を走っているときにこの通知が来たんだ。本当に大きな地震だったら、高架から下に落ちて終わるな・・・ということも頭によぎった。実際、大き目の余震だったから、本当に怖かった。そこから、点検で電車がしばらく止まってたし、また地震がきたらどうしよう?とか考えたら不安で仕方なかった。

計画停電が始まる。

原発を使うメリットとして、大きな電力量を得ることが出来る。だから、人口が多い関東地域の必要な電力もまかなえることが出来てたんだ。

ただ、原発事故が起こったから、そこでの電力供給が行えなくなったんだね。それで、別の発電設備からその分の電力をまかなう必要が出てきたんだけど、原発が作る発電量を超える発電設備はない。全体の供給量を抑えるため、関東に住んでる人が電気を使わないようにしないといけなくなったんだ。

だから、地域・時間単位で停電を行う、計画停電が行われたんだ。

計画停電によって、町の灯りが目に見えて暗くなっているのが分かった。父さんの肌感覚で、通常時の40%位の明るさだったんではないかな?故障でもないのに、信号が消えているのを見かけた時にはさすがに驚いたな。

こういう状況下だと、人はみんなで協力しようという意識が芽生えてくる。計画停電が行われる地域は元より、計画停電の地域でなくて電気が使える人も協力しようと、みんな電気をできるだけ使わないようにしていた

・不必要な照明、テレビは消そう。

・寒いけど、エアコンは使わないでおこう。

こういう行動を取るようになる。父さんと母さんが住んでた当時のマンションは、計画停電のエリアから外れていて停電はなかったけど、父さんと母さんも協力して電気を使わないようにしてたよ。湯たんぽを買って、それで暖をとったりしていたなあ。晩御飯を食べる時も、ほとんど照明を付けずに食べてた。

こういう生活は、とてもエコロジーで良いことだと思う。ただ、こういう普段と違う生活になるんだけど続けようとしていくと、最初は良いけど、続けていく内に疲弊してくるんだね。特に、父さんの感覚では、照明の明るさっていうのは重要だと思った。

照明が明るい = 安心感がある

コンビニなんかは、こんな人間の心理を突いて常に明るい店内にしているみたいなんだけど、計画停電でこれが照明による安心感が無くなる状況が続いていたんだ。

見えない放射性物質に怯え、

いつ来るか分からない余震に怯え、

暗い中でずっと生活をしないといけない

本当に陰鬱な気持ちがずっと続いていた記憶がある。しかも、そのどれもがいつ終わるのかが分からない。原発の廃炉処理なんて、未だに続いているからね。

震源地近くの東北沿岸地域の方々の大変さに比べれば大したことはないんだけど、関東は関東で大変だったな。

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