【我が子への残言】 東日本大震災の記憶(1)当日の記憶

今、この記事を書きながら、2019年3月11日になろうとしています。

3月11日・・・東日本大震災から、もう8年になるんですね。深く記憶に刻み込まれたと思っていた自分自身の記憶も、当時から比べると少しずつ風化しているように感じます。少しでも忘れないよう、自分の子供へ伝えるという名目と合わせ、備忘録的に記します。

2011年3月11日 

14:00頃 ~ 地震発生

この頃、父さんと母さんは関東(横浜)に住んでいたんだ。父さんは、今の勤め先とは違う会社で、東京の中野区に本社があった。オフィスは22階。この日も、その22階で仕事をしていた。

リリース作業と言う、お客さんに納品(作ったソフトウェアをサーバーにアップロード)するための作業をしていて、15:30の〆切時間に向けて慌ただしく仕事をしていた。14:30頃にある程度、作業の目途がつけられたので、ふっと休憩をしようとトイレに行った。

そこで、地震発生。実は父さん、トイレで地震にあったんだ(苦笑)

激しく横揺れがあって、記憶では横揺れに縦揺れもあったかと思う。慌ててトイレから出て(ちゃんと仕舞いはしたよ(苦笑))、自分の席に戻ろうとするけど、揺れが激しくてまっすぐに歩けない。また、廊下の用具入れやパイプスペースの扉がバタンバタンと開いたり閉まったりしていた。オフィスに入ろうとしたら、入口の植木が倒れていて通路が遮られていた。

凄い光景やったな・・・数分後に揺れが収まって、興奮状態でインターネットで情報を見る。インターネットは繋がっている。震源地はどこだ?

宮城県の沖合い・・・東京であんなに強い揺れだったのに、、、震源地がかなり遠くてかなり驚いた。

余震発生と気になるニュース

客先に連絡。確か、この時は電話をした。本日のリリースは中止で問題なし。ってか、お互いそれどころではない。

当時、銀座で働いていたお母さんに連絡を取る。確か、Eメール。この当たりから、携帯の回線がパンクしかけている状態になっていたんだと思う。メールでなら経由するサーバーも違うだろうし行けるかも?と思った。お母さんも無事なようだった。

そうこうしている内に、15:00過ぎ位、会社から帰宅許可。帰ることが出来る人は帰るようにと。ただ、場内放送でエレベータが止まっていると案内があった。22階に居るのに、困った(苦笑)また、ネットニュースを見ると鉄道が止まっているという情報もあった。まあ、当然そうなるわな。

とりあえず、会社で様子を見ようと思っていた時、、、余震発生。少し大きめ。

お父さんの席はオフィスの真ん中だったんだけど、窓側に人が集まっていたが見えた。なんかあったのかな?と思って同じように窓側に行ってみると・・・

向かいのビルが揺れているのがはっきりと見えた!

ちなみに、向かいのビルの人たちも窓際に集まっていて、同じくこちらを見ている。多分、同じようにお父さんのいたビルが揺れているって思ってたんだろうね。高層ビルの上層階は、揺らすことで逆に力を分散させて耐えることが出来るんやね。

で、とりあえず様子見をしていて、いつ会社を出ようか?を考えていたところ、とても気になるネットニュースを見る。

『津波発生。車が数台流される』

帰宅する中で見た光景と連絡手段

津波・・・普段の小さな地震の速報で、『津波の心配はありません』というのが常套句のように感じていた津波。正直、この『津波発生。車が数台流される』という文言に理解ができなかった。

父さんは、高校生の頃に阪神大震災を大阪で経験した。あの時の経験から、今回も尋常じゃないことが起こっていることは分かっていたけど、それでも理解が出来なかった。それほど非日常的な感覚だった。当時は、スマートフォンも出始めた所で、お父さんは持っていなかったので映像とかも見れなかった。まあ、当日には当時の動画サイトにも上がってなかっただろうけど。

とてつもない不安を持ちながら、帰宅しようとして(ちょうど動きだした)エレベータに乗る。余震で止まることを考えると、階段で降りた方が良いのだけど(苦笑)まだ、最寄り駅の路線の電車は止まっていたので、ビルを出た所のバス停でバスを待つ。渋谷行き。ちょうど、降りる人との入れ違いで座ることが出来た。

お母さんは、勤め先の銀座から歩いて横浜の家まで帰ろうとしていた。なかなか無謀だと思ったけど、こういう人が多くて、歩く人の行列が至る所で見かけた。でも、合流した方が何かと都合が良いと思って、渋谷で待ち合わせをした。結構、お母さんはかなり遠回りする形になったみたいで、お母さんにキレられた(苦笑)

ちなみに、この時、携帯の回線は完全にパンクしていて、電話は全く通じず。ショートメールも稀に届く位。ただ、携帯のインターネットは繋がったので、当時、使っていたSNSの走り、mixiの掲示板で連絡を取り合っていたんだ。

お父さんはバスの中で、お母さんと連絡を取り合っていたのだけど、お母さんはこの少し前に契約したiPhone3の地図アプリを基に東京の街を歩いていたんやね。ただ、地図アプリは電池の消費が激しく、お母さんの携帯も電池切れになりかけていた。お父さんと連絡を取らないといけないから、お母さんは携帯をだましだまし使う形になってしまった。

同じようなことが至る所で起こっていたんだと思う。携帯の予備バッテリーはどこのコンビニ、量販店でも売り切れ。歩いて帰る選択をした人が買ったのだろう、安価な自転車も飛ぶように売れていたみたい。

バスに乗った父さんはと言うと・・・大渋滞にはまっていた。多分、空いていれば20分くらいで着くはずの距離で1時間半ほど乗っていたんだ。会社を17時前くらいに出て18時半頃に渋谷駅に着いた。

で、そこで見た光景は・・・バスを待つ人、タクシーを待つ人、超有名な渋谷の交差点の大渋滞。どうしようかと悩んで右往左往する人達。。。帰宅しようにも出来ない人達で混沌としていた感じだった。

震源地から遠く離れた東京でも、パニックは起こっていたんだ。

帰宅難民になりかける

こんなパニックになった状態で、混沌とした中で、そのうえで携帯が繋がらない。そんな中で無事に母さんと合流できるのか?渋谷合流は、失敗やったかな?ってその時に思った。町の様子を把握してから待ち合わせをするべきやったなと反省したな。

mixiに最後にメッセージを残したのが、渋谷のビックカメラ前で待ち合わせの旨。そのメッセージは母さんは見れていて、なんとか母さんと合流。母さんは半泣きだったな(苦笑)合流できた時は、本当にホッとした。

とは言っても、まだ家には帰れない。電車が止まっていたからね。渋谷から出る東急東横線で日吉駅まで帰らないと。

地震後、父さんが仕事を切り上げたように臨時で営業時間を切り上げる店が続出していて、合流後、休憩しようとしても入れる店がほとんどなかった。営業中の店もほとんど満席。近所の宿泊施設は、すべて満室。色々探した結果、なんとかもつ鍋屋さんに入れた。

店に入れた安堵感と、もつ鍋の温かさと。。あのもつ鍋の味は、今でも覚えているな(笑)

で、そのもつ鍋屋さんでこれからの作戦会議。このまま電車が止まった場合、どうやって宿をとるのか?父さんの携帯で情報収集。

母さんが携帯の充電がないことは知っていたので、父さんは携帯の充電を出来るだけ減らないように使っていた。ただ、電話回線がパンクしていたけどたまに奇跡的に繋がることがあって、大阪の身内や友達から電話が掛かってきたりSMSが届いたりした。それもあって、携帯の充電が減っていってたんだよな(苦笑)身内からの心配は分かるんだけど、あの時には少々困る出来事やったな。

携帯で調べている中で、家に居た友達がmixiに色々と帰宅難民受け入れ情報を上げてくれていた。渋谷に居ることを報告すると、どこが近くの受け入れ場所か?を教えてくれたり。この情報はありがたかったな。

日付が変わるのを目途に、電車が動いてなければ家に帰ることを諦めて受け入れ場所に行く。そう決めて暫くして、東急東横線のみ動き出したという情報。急いで駅に向かう。電車が10分後に動き出すとか。情報がつかんだのが早かったのか、最初に出発する電車で座ることもできた。

ただ、日吉駅に着いてもタクシーの行列(苦笑)。でも、ここまで来れたら大した問題ではない。20分ほど歩いて帰宅。さすがに疲れていたので、そのまま寝た。

本当にラッキーだったな・・・こんな状況下で、自分の布団で寝ることが出来た。

ただ、この日の途中から、父さんは自分達の事で精一杯だった。多分、母さんもそう。だから、他の事まで気が回らなかった。

言い変えると・・・この地震の本当の悲惨さを、次の日まで知ることがなかったんだ。

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